土星は山羊座の支配星であり、占星術においては制約や制限をあらわします。木星の勢いが大きくなる時、土星の力は抑えられます。
土星の主な役割は抑制することにありますが、それは、この世界に仕組みとその意味をもたらします。土星は、時と物質の限界を知り得ており、人々に限界について気づかせ、責任や義務を教えます。それは人生の意味を与え、自己制御の必要性と、責任を持つことの重要性、また、限界の中で直面する問題と向き合うための気づきを与えていきます。
土星は主に、父親、指導者、または権限の形に関連します。幼少時、両親や教師といった存在から課せられる規律や規則の多くは、時に受け入れがたいものであっても、常に社会を生きる上での指針となるものだったはずです。同じように、土星からの教訓は、人々の歩みを助けるものとなるでしょう。
木星は射手座の支配星であり、導師である「グル」と呼ばれています。占星術において、木星は学びの惑星であり、知識を通じ物事の実態を見抜く力を探求します。倫理観や秩序、自信や願望、栄光といった象徴を持ち合わせ、より広範囲での目的や可能性をあらわす惑星です。
一般的に、木星は楽観主義、また知的で精神的な成長に関連します。それは、自分自身の唯一性、その知識と理解力を発達させ、その自己の価値への気づきによってのみ、人々は人生において成長できるということを気づかせていきます。
木星は競争を促し、時に自己の価値の喪失などを与えますが、人々は自分自身の知識や唯一の質を開拓し目覚めない限り成長はできないことから、それらは全て、木星が与える成長のための教訓に他ありません。
太陽は獅子座の支配星であり、生命を与えるもの、また占星術においては、意識的な心をあらわします。それは、人々の生きる望みと、創造的な人生を象徴し、基本的なアイデンティティーや自己実現、生きる力を示しています。太陽は私たちを導く存在であり、ホロスコープのチャートにおいては「監督」ともなりえます。
また、太陽は現在という瞬間である「今」「ここ」を映し出し、人々の潜在能力は、過ぎ去った過去、まだ来ない未来ではなく、今というこの瞬間にのみ最大限に発揮されるということを気づかせます。私たちは、許すという行いによって、過去を解放することを学ばなければなりません。太陽は他に力を与えるのではなく、私たちの内なる力を呼び覚ますものです。
アメリカの占星術者、グラント・ルイは、「太陽は人々の行いを支配する心理的なバイアスの指標である」と言及します。また、「考え、夢を見、創造し、多くを願うことは、月とその他の惑星によるものであり、太陽は自分自身そのものである、また太陽として最高の自分自身であることは、エネルギーが惑星からの影響による最大限の助けを受け働く要因となる」と述べています。
太陽の影響が行動として現れる時、目的が見え、方向性を持ち、満たされ、創造的となります。一方で、傲慢さや頑固さ、自己中心的、批判的となるネガティブ性も持ち合わせています。
ホロスコープのチャートにおいて、12星座による太陽の位置は、その者の人生の意味、またこの世にその証を残す表現方法となり、ハウス(宿)によって、どこで人々の個性が輝くのかがあらわされます。そのハウスによって関連付けられる人生の領域は、人々の個性に寄与し、自尊心を形成する経験を明らかにするものです。それは、人々が星座としての太陽の資質をあらわすものとなります。
水星は双子座と乙女座の支配星であり、神々の使者とされています。神話においても、占星術においても使者として知られ、日々の生活においての表現や伝達の惑星と言われています。例えば、大げさに言葉を操るか、または言葉の選択に簡潔であるか、あるいは個人的な場面においても事務的な口調となるかなど、伝達や言葉における領域を支配します。
水星は伝達だけではなく、胸のチャクラも支配しています。水星が凶星である場合、正しいコミュニケーション、考え、行いを学ぶまで、人間関係においてさまざまな浮き沈みを経験せねばなりません。水星の影響が行動として現れる時、私たちは探求的で好奇心に満ち、話好きで多才となります。しかし、水星が凶星である場合、緊張感が強く、神経質となり、細かいことにうるさく、過度に専門的となるというネガティブさが生じます。
星座における水星は、個々の伝達のあり方を示します。ハウス(宿)によっては、その者がどこで声を発し、また人生のどの場面に知性を注ぎ、思考を展開する傾向があるのかを明らかにします。
月は蟹座の支配星であり、占星術においては人々の個人的な要求、無意識における習慣や反応をあらわします。また、太陽が活動するところで月は反応を示します。問題に対しどう本能的に反応するのか。安寧のために何が必要であると感じるのか。自身のホロスコープにおいて、月の配置を見ることで答えが得られます。
月は一般的に、母親、または女性エネルギーに関連しています。インナー・チャイルド、また、インナー・マザーの両方であると言われ、自発的で本能的な反応や受容、反射をあらわします。また、活発さを与えるものであるともされ、それは、エネルギーのリズミカルな引きと流れを支配します。
月は内なる世界と、外界とを繋ぐ仲介者でもあります。太陽が合理的であるとき、月は不合理なものとなります。習慣的な振る舞いや、偏見や先入観といったものは月によるものです。太陽が見守っているため、偏見は生み出されないとしても、月は自発的な反応や感覚を支配します。
ホロスコープにおいて月の良い影響が出ている場合、想像的で創造的、恐れがなく感情的にバランスが取れ、順応性があり、内観的で保護的となります。月が凶星である場合、感情的に不安定であり、恐れ、不安、憂鬱、落ち着きがなく、理性を欠くというネガティブさが生じます。
金星は天秤座と牡牛座の支配星であり、占星術においては愛の女神として知られています。私たちの人生において、愛と金銭という2つの主要な領域を支配します。
金星は感情、価値を見出すもの、人生における喜びをあらわします。優雅さ、魅力、美しさは金星によるものであり、人々は金星を通じ、好みや喜び、芸術的傾向、また喜びをもたらすものを学びます。
どう金銭を使うか、またどんな贈り物を買うか、どれだけレジャーに出費するか、金星を見ることによって分かります。金星が凶星となっている場合、金銭を得ることについて、貯めることについて、享受することについて、引きつけることについて、そして守ることについて丁寧に学ぶ必要があります。これらの注意を欠く場合、金星は金銭を損失する状況を与え、人々に学ばせようとします。これらを学んだ時、豊穣という恩恵を人々は授かるでしょう。
金星はまた、他への執着心を支配します。人々や物を魅了し引き寄せる能力もまた、金星によるものです。金星のエネルギーは調和的であり、それ故、金星の影響が良い状態で出ている場合、多くが平和を担う者となります。また、金星において、感謝をすることと、されることの必要性を見つけます。
芸術、愛やロマンス、美しくなるためのプロセス、金銭、喜び、レジャー、官能性、そして満足感を支配する金星の影響が行動として現れる時、妥協性が生み出され、平和を愛し、風情によって行いをするようになります。一方、金星が凶星である場合、身勝手となり、自己中心的で、うぬぼれ、浅はかとなるネガティブさが生じます。
火星は山羊座の支配星であり、戦いの神、占星術においては、エネルギー、行動、願望の惑星として知られています。それは生存本能であり、人間の中の獣性の残りであるとも考えられています。
火星は、侵略や生き残りに対する動物的本能を支配します。反作用よりも作用の惑星であり、火星においては活動の前に熟考することはありません。火星に関連する活力は、太陽における自己主張性とは異なり、願望に基づく主張によるものです。創造的なエネルギーよりも、むしろ粗野なエネルギーといえるでしょう。
火星は、安定的な人生への活着を支配します、火星が凶星となっている場合、個人的な面で、またキャリアの面で、不安定さが与えられます。そしてそれらに対処し、直面する境遇と向かいあい、恐れを解放しながらどう安定を得るのかを学ばせようとします。
火星は、毎朝、ベッドから私たちを起きあがらせる力そのものであり、私たちの活力、欲望、そして活発なエネルギーです。
火星の影響が行動として現れる時、自己主張が強く、方向性があり、真っ直ぐで、大胆となります。火星が凶星である場合、衝動的で、そそっかしく、忍耐がなく、攻撃的で強引となるネガティブさが生じます。
ラーフは天蛇の頭として知られています。自己破壊の道に誘惑し、ダルマの道から人々を連れ去っていきます。しかし、ラーフがこうすることには非常に明確な目的があります。ラーフは、人々に学び、味わい、すべてを感じさせようと働きます。そうすれば、その完全な充足から、人々は自己実現の道へと新葉を伸ばし、真の悟りを見つけるようになるからです。物質的な面において勝利を収め、成功するための飽くなき欲求をラーフは与えます。しかし、一度達成の頂点に達した時、それが幻想を追いかけているにすぎず、その成功は幸福をもたらさないということに気がつくでしょう。
人々の現世における欲の飽食を説く多くの信仰がインドにはあります。それは、あらゆる欲望を満たすことが真の幸福を与えるわけではないという重要な教訓を与えています。
ケートゥは天蛇の尾として知られています。ケートゥは、人々の歩みに大きな障壁を生み出します。それは、障害物のように、交通渋滞のように、人生という旅の歩みを阻み、さまざまな痛みを引き起こします。しかし、それは人々の精神を変容させるためのものであり、そこで過去のカルマによる重荷を手放すことを学びます。身軽に、自分自身の存在を探求すれば、人生において取り組むべくもの、また手放すべくものについて理解することができるでしょう。ケートゥの力を利用することができす、カルマの道を理解することができない人々にとって、ケートゥは悲嘆の存在となり得ます。実際に、ケートゥの力に立ち向かうことは、困難なものでもあります。人々は運命である神の意志について理解し、そしてそれを受け入れる心が必要があり、ケートゥは人々に真の悟りへとつながる啓発を生み出すためにその行いを行っています。ケートゥから得られるものは、与えられた問題を受け入れることができるよう、より強くなるために、火の儀式を通過するようなものです。