アグニ・ナクシャトラム
アグニ・ナクシャトラムについて
インド南部に夏が訪れると、太陽は容赦なく大地を照らします。
その中でも特に厳しい時期が「アグニ・ナクシャトラム」と呼ばれる季節です。
タミルナードゥ州では、「カティリ・ヴェーイル」とも呼ばれ、それは太陽の光が刃のように降り注ぐ様子を表しています。
アグニ・ナクシャトラムは、例年5月初旬から5月末、または6月初旬まで続きます。
太陽が最も高く昇るこの時期は、大地は熱を持ち、空気は乾き切ります。
この特別な季節は、古代インドの占星術「ジョーティシャ」とも関係しています。
太陽が星宿「バラニー」「クリッティカー」「ローヒニー」を通過するこの時期、特にクリッティカーの存在が重要とされます。
クリッティカーは西洋ではプレアデス星団として知られ、火を象徴するアグニ神に守られています。
その名には「切り裂く力」が宿るとされ、鋭さと浄化の働きを担っています。
この星宿のあとに続くローヒニーは、アルデバランに対応する柔和な星で、感情や成長に関わる力を持つとされます。
燃やし、切り開き、そして成長へと導いていく――こうした星々の巡りが、この時期に秘められた占星術的なリズムとして知られています。
アグニ・ナクシャトラムにまつわる神話の中で語り継がれているのが、戦いの神ムルガンの誕生です。
神々が悪を打ち払うためにシヴァ神の力を求めた時、シヴァ神の額から生まれた6つの火花は、火の神アグニに託され、最終的に葦の湖へと導かれます。
湖の中で火花は6人の赤子となり、天界の存在クリッティカーたちに育てられます。
その後、パールヴァティー女神が赤子たちを抱きしめると、ひとつの姿に融合し、ムルガン神が現れました。
この神話は、アグニと星宿クリッティカーが霊的な誕生の場をつくり出したことを語っています。
ムルガン神は、南インドではとくに親しまれており、クリッティカーとのつながりから「カールッティケーヤ」とも呼ばれています。
火の神アグニもまた、重要な存在です。
ヴェーダの祈りに欠かせない存在であり、地上の炎、大気の雷、天空の太陽として語られています。
かつてアグニは力を失い、薬効を持つ森を燃やすことで回復を図りますが、雷の神インドラの妨害にあい、それをクリシュナ神とアルジュナが助けたという話も伝えられています。
こうした神話と季節の結びつきは、「タパス」と呼ばれる霊的修練とも通じています。
タパスは、内にある熱を育て、自己を整える力とされます。
瞑想や沈黙、断食といった行いを通して、煩悩を焼き尽くし、自分の中心へと立ち返るための方法です。
アグニ・ナクシャトラムの期間中は、結婚や新居への引っ越し、ビジネスの始動など、大きな転機を避けるべき時とされてきました。
これは、厳しい自然の中で無理をせず、静かに過ごすための知恵でもあります。
一方で、ムルガン神を祀る寺院では、この時期に多くの儀式が行われます。
パラニーやティルチェーンドゥルなどの聖地では、涼をもたらすアビシェーカムと呼ばれる神像の沐浴が捧げられます。
牛乳、蜂蜜、ココナッツ水、サンダルウッドの香りなどが使われ、火照る神々を鎮めるための祈りが続けられます。
とくにパラニーでは、沐浴に使われた水が神聖なものとされ、人々に分け与えられます。
アグニ・ナクシャトラムは、自然の熱に満ちた季節でありながら、心を静め、祈りと向き合うときでもあります。
外の世界が乾ききるとき、内にある熱が目を覚まし、自分を見つめ直す機会が生まれます。
この時期がもたらすのは、単なる灼熱の気候ではありません。
天体の動き、神々の物語、そして内面の変化が交差する、南インドならではの季節のかたちです。
火の中にこそ宿る清らかさと、祈りの光。
それがアグニ・ナクシャトラムの本質です。