カーミカー・エーカーダシー
カーミカー・エーカーダシーについて
月の満ち欠けのそれぞれ11日目に訪れるエーカーダシーは、ヴィシュヌ神に捧げられる日となり、断食や瞑想を行うことが勧められます。
シュラーヴァナ月(7〜8月)のクリシュナ・パクシャ(満月から新月へ向かう半月)の11日目にあたるエーカーダシーは、カーミカー・エーカーダシーといわれます。
このカーミカー・エーカーダシーは、罪からの解放がもたらされると伝えられる吉日です。
一説に、以下のような神話が伝えられます。
ある者が敬虔な人物を殺めてしまったことがありました。
その過ちを償うために苦行を行おうとしたところ、このカーミカー・エーカーダシーのヴラタ(戒行)を行うことを勧められます。
そして、この日に苦行を努めたところ、その真摯な姿勢によってヴィシュヌ神に救われ、罪から解放されたと伝えられます。
カーミカーには、欲望を満たす、欲望や願望に関連する、といった意味があります。
過去の何らかの罪を恐れていたり、罪深い日々を過ごしていると感じたりする人々は、この日にヴィシュヌ神を礼拝し、断食を行うことで、その罪が清められると信じられています。
また、このカーミカー・エーカーダシーのヴラタ(戒行)を努める者は誰でも、転生において苦しむことなく、崇高な世界にたどり着くことができると信じられています。
月の満ち欠けのそれぞれ11日目に訪れるエーカーダシーは、神々に祈りながら断食によって感覚器官を統制し、体と心を清める吉日です。
11が意味するものは、5つの感覚、5つの器官、そして心を合わせた11のものであり、エーカーダシーにおいてはそれらを統制することが重要な行いとなります。
この満月・新月からの11日目は、月の満ち欠けから生じる引力の影響から、感覚器官や心の働きが落ち着き、体に感じる空腹の影響も少なく、断食も行いやすいものであると伝えられます。
特に断食は、絶え間なく働き続けていた体のあらゆる部分を休ませ、忙しなくあちこちに飛び散っていた意識を落ち着かせます。
体の浄化に加え、欲から切り離されることで心の雑念までもが洗い流され、神が宿る場所としての肉体、精神が生み出されていきます。
困難を伴う感覚の統制も、瞑想やジャパなどを通じ崇高者に心を定めることで容易なものとなります。
エーカーダシーを通じ瞑想するヴィシュヌ神の本質は、時の流れにかかわらず、宇宙が生成する以前に存在し、そして消滅した後も存在し続けるといわれます。
エーカーダシーは、万物の中にあまねく浸透する存在と一つとなる機会でもあります。